私は父に会ったことがありません。父が死んだ年齢に自分もなった時、父はどのように死んでいったのか、兄弟に手紙を書いてその姿を追いかけていた。
濱住次郎さんのお話
濱住さんとの出会いはピースボートのおりづるプロジェクトが実施している「おりづる全国証言会」でのことだった。

被爆者の声を全国に届ける目的で実施している。
濱住さんは”胎内被爆”をした被爆者である。
”胎内被爆って?”・・・原爆投下時、母親おなかの中にいた人。
広島:原爆投下後~1946年5月31日までに生まれた人
長崎:原爆投下~1946年6月3日までに生まれた人
おなかの中に居た被爆者がどんな体験をしたのか気になるところである。
濱住さんの被爆証言が始まる・・・。
1945年8月6日。濱住さんのご家族はいつも通りの生活を送っていたという。いつもと変わらない月曜日、いつもと同じ朝に濱住さんのお父さんは広島の中心部の会社に出かけていったそうだ。
濱住さんの兄姉は7人兄姉。当時は父・母と6人の兄姉たちが生活をしていた。
濱住さん自身はまだお母さんのおなかの中。

濱住さんは地図を見ながら話を進めた。
赤くなっているところが爆心地。原爆ドームが近くにある。
濱住さんの家は広島駅より山陰の方に行く電車があり、芸備線の矢賀駅というところ。そこから間もないところだそうだ。
爆心地から約4kmの地点。爆心地から2kmまではほとんど焼けてしまっていた。濱住さんの家もガラスは割れてしまい、土壁は壊れてしまうような状態だったというが、裏山があったおかげで倒壊は免れたという。
中心地から少し離れたところにある住宅地だったため、中心地で原爆でケガした人たちが避難してくる状態だったという。濱住さんのお父さんの兄弟が家族ごと濱住さんの家へ逃げてきたという。夕方までに5家族ぐらい30人ほどが一緒にそこに暮らすようになったという。しかし、濱住さんのお父さんだけ帰って来なかった。
待てど暮らせど、濱住さんのお父さんだけが帰ってこなかったのだ。
物音がするたびにお父さんが帰ってきたのではないかとみんな心配をしていた。その日は帰ってこなかった・・・。
次の日に濱住さんのお母さんとお姉さんたちがお父さんを捜しに行ったという。お兄さんたちもお父さんを捜しに行ったという。1日目、2日目。街はまだ熱さを臭いで家に引き返しては、また次の日捜しに行ってという繰り返しだったそう。
そういうと、濱住さんは次に写真を見せてくれた。
一番左がベルトのバックル。真ん中は鍵束。熱でくっついてしまっている。右側がお財布のがま口の部分。金属の部分だけが残っている状態。
これはお墓に入っており、濱住さんのお兄さんが、5.6年前に亡くなった時に初めて遺品があることを知ったという。
「そしてこれが私の父です。」
と濱住さんの1人の男性の写真を見せてくれた。産まれた時からこの写真をみて育ってきたという。
お父さんの本当の声を知らず、直接の接触があったわけではない。濱住さんが生まれた時から家にあり「これがお父ちゃんだよ」と言われて見てきた写真だという。
濱住さんの話を聞きに来ていた人々に笑って問いかける。
「似ていますか?」
お父さんは49歳の時に亡くなっている。濱住さんは72歳。小さい時に見てきたお父さんのイメージと今の濱住さんを比べるととてもお父さんが若いように見える不思議な気持ちであると話をしてくれた。
ちなみに、近所のお父さんの友人もその日お父さんと共に出かけたらしいが、今も行方不明のままだという。
濱住さんは次の年の2月に生まれた。お母さんと7人の子どもが残された。
お父さんが亡くなった年齢49歳に濱住さん自身がなった時、原爆のことをなにも知らないが故に、兄弟たちに8月6日、何をしていたかそれぞれ何をしていたのかを訪ねる手紙を出したという。
それぞれの兄弟がその日、どんなことをやっていたのか詳しく書いて返信してくれた。
一番上の姉は16歳。次が14歳。この2人は学校で救護所みたいな場所で仕事をしていた。
お姉さんたちは、2.3日して原爆の初期症状として、熱が出たり下痢をしたりしていたという。それは救護所で人々の手当をしていたからではないかと思う。
当時は原爆がどのようなものなのかわからなかったので、どう手当をして良いのかわからなかったそう。火傷をした人にはジャガイモを擦ったり、赤チンという消毒液を塗ったりくらいしかできなかった。
原爆で火傷をしたウジ虫が、ハエがたかるとウジ虫がわいてそれを箸でつまんで取ってあげたとかって言うことで、姉たちは言っていた。
14歳の姉はずっと原爆症の裁判をしていたという。結局裁判は負けてしまったというが、大変な14歳の時代を送ってしまったそうだ。
2番目の兄が飛行場のとこをで仕事をしていた。この日飛行機がずっと午前中偵察に来ており、それが静まるまでは外に出してもらえなかったという。原爆に遭い壊れた建物から出て、午後に家に帰ろうすると周りは火の海で家になかなか帰れなかったそうだ。ずっと遠回りをしながら家に帰ってきたという。
12歳と9歳の兄姉たちが居た。この2人が学童疎開でお寺に居た。市内にいるより安全だということでお寺に居た。ここで原爆を遠くから見ていたという。黒い雨がそのお寺の方まで降り注いだと言っていた。
次に四女は1年生の7歳、五女が4歳だった。自宅におり助かった。子どもたちは全員助かったのだ。
戦後、濱住さんのお母さんはどのように子どもたちを育てたのか。
電気代の集金の仕事を街の中でやり、田んぼを耕しながら家計を助けてくれたという。また、兄は大学に行かず高校を出てすぐに銀行に勤め家計を支えてくれたという。
濱住さんはいう。
「進学や就職などの時、父親だったらどんな思いをもっただろか、子どものことだと色んな思いがあったと思うんですね。だから49歳で人生を終えているわけですが、その後、自分なりの夢もあっただろうし、子どもに馳せる夢もあっただろうし、と思いますね。そんなことが一瞬のうちに絶たれて。父だけじゃなくて、あの1945年のあの年は広島で14万人、長崎で7万人が亡くなっている。ほとんどの人がお年寄り、女性、それから子ども達です。中心地で、行方不明の人たちも先ほど言ったようにいて。そんな中で私はこの49歳になって、それを冊子にまとめました。それがきっかけで、自分は父の倍ほど生きなくては、亡くなった人たちの倍生きなくては、と考えが変わってきました。
私は、私が生きていることと引き替えに父が亡くなっているもんですから。やっぱり常に父のことを思うんですね。生と死というか、それが常に私の中で日常になって。やはりまだ戦争は終わっていないんですね。ですので、73年経ちましたが。一度もまだ安心できる状況に、私の心を思いもそこにはいたっていません、どうしたらこそにいたっているのかってことなんですけども。」
あとがき
胎内被爆だなんて濱住さんの話を聞くまでは正直知らなかった。
お母さんの胎内に居た人が被爆証言なんてできるのだろうかと少し疑問を持ちながら話を聞いていた。
まるで濱住さん自身が体験をしたかのような内容で驚いた。
「私が生きていることの引き替えに父は亡くなっている。」この言葉にどれだけの苦労の葛藤があったのだろうか私は想像もできない。
今こうやって、生の声が聞けなくなると耳にタコができるほど言われ言っている中で記憶はないけれど父の想いを語り継いでいる濱住さんを尊敬する。

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