2001年の9月11日にアメリカで同時多発テロが起きて17年が経とうとしている。
おりづるプロジェクトで2回ここニューヨークに足を踏み入れた。
その度に9.11に想いを馳せることになる。
第98回ピースボートにてニューヨークに寄港をした。
その時にも9.11関連の場所に訪れた。
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9.11トリビュートミュージアム

ここは、9.11メモリアルミュージアムとは少し違う。
メモリアルミュージアムは国立である一方で、トリビュートミュージアムは遺族が作った博物館である。
2001年の9月に事件が起こり、翌年1月に家族会結成。
そして、2005年に遺族の力でこのミュージアムが作られた。ちなみにメモリアルミュージアムは2014年にできた博物館である。遺族が事件後いてもたっても居られなくなり作られたミュージアムという。
遺族は亡くなった家族のことを忘れない・忘れたくないという思いで作られたのである。
ここでは主に、遺品や心のケアに重点を置きながら展示をしているところである。
なので、テーマとしては”人”なのである。
メモリアルミュージアムはビルの跡地に建てられたということもあり建物などがあり、見応えのあるものばかり。飾られているものでまず圧倒されてしまう。
しかし、トリビュートミュージアムは”人”がテーマなので、展示物というものはさほど多くない。
遺族の方が設計・デザインをして作られているものである。
入り口にはここニューヨークの歴史が描かれている。

倒壊したビルの一部や遺品などがある。

この写真は遺族の方々からの寄付である。

それには理由がある。
ここのミュージアムでガイドをしてくれる方は何かしら9.11に巻き込まれた方々だからだ。
生き残った者
ここでガイドをしている人は5つのタイプに分かれる。
①生還者
②遺族
③緊急支援で入った人
④9ヶ月目以降の復興
⑤2万人の周辺住民
2日間のトレーニングを行い、ライフストーリーとともに15分ほどで話をするトレーニングを受けるそうだ。
現在150名ほどの方々がそのミュージアムでガイドをしている。
ピーターさんのお話
今回、私はピーターさんの話を聞くことができた。
ピーターさんは生還者である。

笑顔が素敵で話し方の物腰もとても柔らかいという印象を受けた。
ワールドトレードセンターは2本あった。
タワー①とタワー②である。

ピーターさんはタワー①に居た。
ピーターさんは川を渡った先のニュージャーシー州で暮らしていた。
ピーターさんは23年以上もの間働いていた。大学を卒業したばかりの頃、ニューヨークのワールドトレードセンターで働けるということはとてもうれしいことだったという。
ピーターさんは69階のオフィスで働いていた。
地下鉄を使い通勤し1〜44階まで行ける特急のエレベーターに乗り、44〜69階までゆっくり各駅停車で上っていく。
その通勤するのに、このルートをたどっていた。これを毎日だ。
ピーターさんはいう。最初の15年間は良い時代を過ごしたとのこと。
1993年の2月26日の金曜日に起きた爆発事件までは。
世界貿易センター爆破事件(せかいぼうえきセンターばくはじけん、World Trade Center bombing)は、1993年2月26日、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)の地下駐車場で爆弾が爆発した事件である。
犯行はイスラム原理主義テロ組織アルカーイダ(ウサーマ・ビン・ラーディン)とイスラム集団(オマル・アブドッラフマーン)が関与したとされている。(wikipedia参照)
※ちなみに、このテロ時間に関してはトリビュートセンター内でも紹介はされている。
この事件の犯人は(日本円)1500円のためにレンタカー屋さんに立ち寄り身元がバレたとのこと。
午後12時15分頃爆発。
お昼に外に出ない人が多かったという。なので階段で避難するようにと言われた時に一斉に皆が
避難するため人でごった返したという。
69階〜47階まで降りた時に47階で待つように言われたそうだ。警備隊が来てようやく下まで降りられた。それは午後6時15分のこと。
昼から外に出るまで6時間かかりようやく外に出られたのだ。
ピーターさんは事件の6週間後、仕事を失いたくないので仕事に復帰をしたという。
その時は「まさかもう一度テロ事件が起きるとは」と思っていた。
その後8年間は再び幸せな日々だったという。
2001年 9月11日
8時15分は仕事場にいたという。8時46分飛行機が追突した時間、飛行機は見ていない。
飛行機は94階に突っ込んだ。突っ込んでからの2分間はとても長く感じたという。建物は大きく揺れた。立ち上がった時に床がぐらぐらしていた。朝が早かったので、出勤している人は少なかった。
揺れが収まった後に避難しようとしていた。
職場には電動車いすの友人のジョンがいた。
避難用の車いすで降りようとしていた。同僚10人ぐらいが手伝いみんなで避難しようとした。
15年間ジョンと同じ職場で家族のように触れあっている中で家族のような存在だったという。
2001年の時は朝早くまだ多くの人々が出勤をしていなかったため、スムーズに降りることができた。
40階に行くと熱さを感じた。他の消防隊員とすれ違った。
21階まで行き、少し待機をした。
そのとき、隣のタワーが倒壊する音がした。
10階まで来たときにラジオを聞いていた友人が隣のタワーが倒壊したと聞き、パニックになった。
外に出られたのは10時10分。外にはされも居なかった。
WestStreetで北上した。瓦礫が落ちていたと思っていたら落ちているものは人だった。
インパクトライン(飛行機が追突したライン)より上の人は逃げる手段がなかった。
その時人は2つに分かれた。
・残り続ける人
・飛び降りる人
何もできないふがいなさを覚えている。数分すると地震の様に揺れた。
振り返ると大きな雲が迫っていた。ピーターさんが脱出した15分後、すべてのビルが倒壊した。
ピーターさんは一晩入院し、家に帰ることができた。
数週間後に仕事に復帰したという。

車いすのジョンさんは大けがはないが退職している。
2つのビルから1万7000人が避難できたという。日中であれば5万人居るほどのビルの中でこの人数の人々が避難することができたのだ。
建物に人が少なかった理由。
①新学期の始まり
②選挙もあった。
③(月)の夜、アメフトの試合があい、仕事に遅れている人もいた。
継承をしていくのか
今となってはもう17年前の話。
17年前に生まれた子は今高校生としてこの場を学校教育の一環として訪れるらしい。
ピーターさんは身体がある限り継承していきたいという。話すことで自分自身のケアにつながるからだという。
またもう知らない子どもたちが多い中で産まれていなかった人たちにどう伝えていくのかが大切。
年齢は関係なく、自分が悲惨な体験をしたということを伝えることが大切。
人を助けることが大切であるとしてほしい。
歴史は正義と悪の闘い、善をたくさん作っていく活動ができたらと言っていた。
人の言葉を伝えるインパクトがあると信じて今日もピーターさんは話をする。
ピーターさんとフィールドワーク
ピーターさんとその後、少しだけ外を歩いていくことができた。

ここのカフェは当時避難所と救助に向かったレスキュー隊たちの休憩所になっていた。

この木は当時、根っこから抜けてしまい、悲惨な姿になって横たわっていたという。
その姿を住民が見て、大切に植え替え今の姿になっているという。
落ち込んだ人々の心にこの木の生命力は大きな力になると言っていた。

ピーターさんに当時のことは思い出すことはないか聞くと、今はもうないがたまに少しだけ思い出すことがあるという。
当時は夜も眠れないほどだったがカウンセラーのおかげで心のケアをしてもらったという。
15分遅かったら生きていなかった。生き延びられたことをどう社会に貢献していくか。
自分が体験の話をすることで子どもたちが響くことをしていきたいと話してくれた。
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