一緒にいるとなんだか家族のような気持ちになる。誰よりも人の気持ちを考えて行動してくれて、人の気持ちを汲み取ってくれる。とても近い存在であり、つい「お姉ちゃ〜ん!」と呼びたくなる。
彼女に会った人は一瞬で彼女のことが大好きになるに違いない。

倉守照美さんの話
倉守さんとの出会いはおりづるプロジェクト2018。第98回クルーズでおりづるプロジェクトの担当をした時である。
倉守さんは1歳で長崎で被爆している。1歳なので、記憶はもちろんない。
なので、被爆証言をするのにもどこか自信がない様子。
しかし、話を聞いていくと多くの記憶のある被爆者と同様に辛く、話したくもない話を持っていたのだ。
それでも被爆証言をしようと思ったのはなぜか。
被爆者である倉守さん自身も今まで語り継いでいる被爆者たちからのバトンを受け取った方だからである。
倉守さんは長崎の小瀬戸町という町で生まれ育った。

家の前には山や海があり自然豊かな場所だった。小さい頃はよく海に飛び込んで遊んだり実のなる季節になると果実を積んで食べて天真爛漫に過ごしてきたという。
倉守さんは9人兄姉の末っ子。生まれてから上の5人の兄弟は親戚へ養子に出したので一番上の兄弟のことはよく知らない。
年の近い、姉と2人の兄が倉守さんの兄姉という。
倉守さんのお父さんとお母さんは仲が良く、2人がケンカをしている記憶はないという。
お父さんは生き物が大好きで、家には犬やニワトリやハトなど多くの動物がいた。
犬が床下に置いてあった野菜を荒らした時も怒ることなく、ケガした犬の心配をしていたほどだったと。
倉守さんはそんな父の膝の上に座りながら父の晩酌に付き合うのが大好きだった。
お母さんは物静かな方だった。
「勉強しなさい」と言われたことはなく、自分のことは自分でしなさいとよく言われたと言っていた。
8月9日。11時2分。長崎に原爆が投下された。
倉守さんの家は爆心地から5.8km離れたところにあった。
近所は家がみな、近いこともあり助け合いながら過ごしていました。
空襲警報が鳴る度に近所の方が一番最初に1歳の倉守さんや、生まれたばかりの近所の赤ちゃんを避難してくれていた。
原爆が投下された時はたまたま母と姉・兄たちと裏山にある防空壕に避難をしていたのでみなが無事だった。
父は仕事で長崎にある三菱造船所で仕事をしていた。それは、爆心地から4kmほどあるところだった。
原爆投下後、自力で家に帰ってきた父の姿を見た時は母を始め、家族の皆が安堵したという。
原爆投下後4年ほどたったある日のことだった。
倉守さんのお父さんが入院をした。声が出づらくなり喉から風が吹いているようにスースーしていて苦しそうだった。当初は肺結核で入院していた。
倉守さんのお母さんはお父さんの闘病で病院に付きっきりになってしまい、家では大学生だった兄が洗濯物をしてくれたり、料理をしてくれたりしてくれた。
面会は許されず入院していた時の父には会っていないという。母が幼い倉守さんに悲しい思いをさせないために面会をさせなかったと後から聞いたという。
原爆投下後10年経ったのちに父は死んでしまった。
お父さんは多臓器癌で死んでいった。当時原爆症と診断を受けていたそうだ。
今思えば、入院した時も肺結核と診断されたが、当時は癌だと診断することが出来ず、当初から原爆症で癌だったのではないかと思うという。
お父さんは爆心地から4kmほど離れたところで被爆をしていたので、放射能をたくさん浴びたのだと思うと倉守さんは言う。
お父さんが亡くなった時のお葬式は今まで会ったことのない親戚の人たちがたくさんいて賑やかで倉守さんはちっとも寂しくなかったと言っていた。
しかし、日に日に家を訪ねる人たちも少なくなり、ずっと看病していたお母さんの落ち込んだ姿を見た時に倉守さんはこれから財政力のあるお父さんがいない分、迷惑はかけられないなと思ったという。
倉守さん自身は悲しいという感情はそんなになく、お父さんが長い闘病生活をしている間に「お父さんは近い将来いなくなってしまう」と心の整理がついていたのではないかと言っていた。
ちなみに倉守さんには当時すでにお嫁に行っていた18歳のお姉さんがいた。
お姉さんも原爆投下当時爆心地から7km離れた地点で仕事をしている時に被爆した。
8月9日は7kmの地点からお母さんとお父さんを心配し自力で実家に帰ってきた。
そのお姉さんの姿を見て、家族もみな安堵したという。
しかし19年後、原爆症になり、死んでしまった。
お姉さんはある日突然髪の毛が抜け、鼻血が止まらなくなり、高熱も出て、発症後2か月余りで亡くなった。
原爆投下後2人の愛する家族を倉守さんは亡くしたのだ。
お父さんがいない中、お母さんが女手一つで倉守さんや兄弟たちを育ててくれていた。
財政力のあるお父さんが亡くなり、幼いながらにお母さんには迷惑がかけられないと思ったそんな中、助けてくれたのが、兄姉だった。末っ子だった倉守さんに苦労させないがために父親代わりをしてくれた。お母さんも兄姉たちも父親がいないことで馬鹿にされないために身なりなど特に気を使ってくれていたという。
お母さんも兄姉たちも自分たちが被爆者であるということも私にも他人にもほとんど話をしたことがなかった。倉守さんのお母さんに関しては、倉守さんが被爆者であるということをずっと話していなかった。
しかし、お父さん・お姉さんが放射能の影響で死んでしまったことでなんとなく自分自身も被爆者なのではないかと意識していたという。
倉守さんのお母さんが被爆者であるということを倉守さんに言わなかったのには理由があるという。
それは”差別”と”偏見”である。就職や結婚などで差別や偏見が支配的な時代。被爆者であることで結婚がなかなかできない人、結婚破棄された人もいたという。
倉守さん自身も結婚したいと思っていた方と直前に”被爆者”であることで相手の両親から結婚を反対され、好きな人と結婚できなかった過去があるという。
結婚後も被爆者は苦しんだという。当時は放射能の存在は誰も知らない。
放射能物質は人体に入るとDNAを傷つける。DNAは遺伝子である。子や孫が生まれる時は人知れず心を痛めるのが被爆者だという。
そんな倉守さんは被爆証言の話をするつもりは全くなかったという。
ある時、倉守さんの孫が長崎の平和活動の中で「高校生一万人署名」のメンバーになっていた。
平和活動へのハードル*
※「高校生一万人署名の説明文アリ」
そんな孫から被爆体験を聞かれたという。
「おばあちゃん、どんな被爆体験したと?」
きっとよそのおばあちゃんは被爆体験を話しているのになぜ自分のおばあちゃんは話をしないのだろうと思ったのではないかと言っていた。
倉守さんは今まで話をしていなかった分、「とうとう自分の順番が来たのか!」と勇気になり話を始めたのがきっかけだったという。
孫から話を聞かれたのをきっかけに何か自分にもできることがないのかと思い、行動に移し自分の被爆体験を話すようになったと言っていた。
船内で被爆証言を話す倉守さんの姿は日に日に自身に満ちてきた。それは、人前で話すことで伝えていく責任感などが大きく芽生えたのではないかと思う。
倉守さんが言っていた。
「そして今、ここに私はいます。」
長崎を最後の被爆地にという想いで私は地球一周をしながら被爆体験を話しています。親は被爆体験の話をしなかった分、聞きたいと思った時には親はもういませんでした。
いつの日か生の声を聞くことが出来なくなります。私が体験を話せる残された時間はもう長くありません。私は私と同じ想いや体験をしてほしくないということで未来の皆さんにバトンを渡しています。
しかし、被爆体験を聞いたとて、皆さんの人生は変わりません。明日には普段と変わらない日常が待っています。その中で少しでも何か感じることがある人や行動に移したいと思った人がいたのであれば、なんでもいいです。
一歩踏み出してほしいのです。私からのバトンを受け取ってください。
微力だけど無力じゃないでしょ?
あとがき
この話はクルーズ中船内企画での証言会で話してもらった内容をブログ用に少し書き方を変えたものである。しかし、内容的には変わりはない。この証言の内容は倉守さん自身のもの。
内容一文一文を倉守さんの過去をたどりながら聞き取りをして一緒に作ったものである。
2人で1ヶ月かけて原稿を作った。そのくらい、彼女は人前で自分の体験を話していくという経験はなかった。
しかし、初めて人前で、しかも船の中の一番大きな会場で300人以上の人々の前で話をするということは今まで主婦として家族のために尽くしてきた倉守さんにとっては初めての体験である。
この証言会以降寄港地・船内での証言する時の姿や発言の内容はわかりやすいほど大きく変わった。
辛い話をすることが逆に心のケアになっていくという心理カウンセリングを聞いたことがある。
幼少期に被爆し記憶がないからこそ、現代につながる差別・偏見・放射能が身体に与える影響について話すをし、だから核って悪いものだよね。と語れるのだと思う。またそれが、家族を失った悲しみを乗り越えることにつなげることになるのだと私は思う。



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