最近アメリカのニュースなどで、黒人の方々への差別や攻撃といった痛々しい事件を多く目にしてしまいます。
それに抗議する形でテニスプレイヤーの大阪なおみさんが大会をボイコットをしました。



この行動に対して私は全面的に支持をしていきたい。
しかし、日本人の両親の元に生まれ日本の教育を受け、育ってきた人たちの一部にはこの行動が理解できない人もいるということに驚きを隠せないのです。
また、”アメリカで起きているなんだか危険で怖い事件”と思っている主に関心がない人達もいます。
だが、声を大にして言いたいのは、一歩俯瞰して周囲を見てみれば日本にだって差別や人権侵害しているだろうというような行動を取っている人はごまんといるということです。
ヘイトスピーチも最近は規制がようやく厳しくなってきたが、まだまだそこら辺で行われています。
選挙などを使って、立候補者が悠然と差別を支持あうるような公約を並べたりしているのです。
要は”他人事ではない”ということを私は言いたいのです。
最近、ある映画を見ることが出来た。今回はその映画をご紹介したいと思います。
スティーブ・スピルバーグ監督作品の中の「カラーパープル」という映画に関してです。
Contents
映画「カラーパープル」原作
まず、この「カラーパープル」という話、原作があるのはご存知でしょうか。
アフリカ系アメリカ人の作家である、アリス・ウォーカーさんによって書かれた小説です。
このカラー・パープルという作品はアリス・ウォーカーさんの作品の中でも代表作となっており、人種差別主義の白人文化だけではなく、家長主義の黒人文化、女性蔑視など描かれており、そこから自分の流儀を貫いていく女性たちの物語になっています。
原作を読んだ多くの人々に大きな反響を残した作品でもあるです。
この作品自体は、アリスさんの両親や祖父母の人生を参考につづられています。

映画「カラーパープル」あらすじ
物語は1909年代から始まります。アメリカ南部の小さい家で14歳の少女セリーが父親から性暴力を受けた影響で妊娠した子どもを出産してしまうのです。
出産後すぐに子どもは父親に引き裂かれ、売られてしまいます。悲しみの中でもセリーの心の支えとしているのが妹のネティ。
2人は共に支え合いながら横暴な父親の元で奴隷同然に生きていました。
ある日、父親はセリーと同じぐらいの少女と再婚。その結婚式に来ていた男に妹のネティが狙われます。
その男名前をミスター(本名はアルバート)。ミスターは正式にネティを嫁にと現れます。
「子どもの世話のためにネティを嫁にしたい。」
(この時のネティは10代前半ぐらい。ミスターは30代ではないかと思う。)
父親はその申し出を断り、代わりに姉であるセリーを嫁によこすのでした。
セリーは絶望の中、夫であるミスターの暴力と奴隷同然の扱いに耐えながら日々を過ごしていきます。
ネティが父親の所から逃げてきた際はセリーにとって心の支えであるネティがいることで一時の安らぎを覚えますが、それも長くは続きません。
とある出来事でミスターの怒りを買ったネティは追い出されてしまいます。
セリーとネティは引き裂かれた後もセリーはミスターの暴力と奴隷扱いに耐えながら日々過ごしていきました。
月日は過ぎ、ミスターのお気に入りの歌手であるシャグ・エブリーという女性が家に住み着くことになります。
このシャグとの出会いによって、セリーの虐げられている人生に彩りが生まれ、変わっていくのでした。
現在にも続く社会問題
この物語の舞台になっているアメリカ南部の1900年代前半。日本で言えば、日露戦争や伊藤博文暗殺される時期と言えばわかる人はいるでしょうか?
アメリカの1900年代というと、人種差別を合法とするジム・クロウ法というのが出来た時代です。
ジム・クロウ法は、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。主に黒人の、一般公共施設の利用を禁止、制限した法律を総称していう。しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(ワンドロップ・ルール)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、黄色人種などの、白人以外の「有色人種」(Colored)をも含んでいる。
Wikipediaから引用
例えば、アメリカ南部の黒人には投票権がないとか、白人を当時の呼び名「サー」と呼ばなかったことによってビール瓶で殴られるなど。
黒人の命は軽いとされてきてしまった時代なのです。
実際、映画の中でもソフィーという女性がその姿を見せています。
ソフィーはミスタ―の息子であるハーポの嫁。男たちにも屈せず黒人だから、女性だからといって弱さを見せない強い女性です。
ある日、子どもと買い物をしていた際に白人である市長婦人に子どもが目を付けられます。
可愛い子どもを奴隷として家に頂戴というのです。
それを拒否するソフィー。拒否したソフィーに対して「妻に何をしている!」と殴る夫である白人の市長。我が子を守るために市長に殴りかかってしまったソフィーはその場で白人たちにののしられ、市民を守るための保安官に殴られそのまま刑務所に入ってしまうのでした。
刑務所に入って約8年。ようやく保釈されたソフィーは白人の市長夫婦の元に奴隷として雇われていくのでした。
私的にこのシーンがリアルに黒人の立場を強調しているようなシーンに思えて、とても心が痛みました。
他にも家長主義である黒人文化によって、女性蔑視がある。
そもそも、黒人であり女性であるということはこの当時立場としては弱いものだったのです。
才能がなければ、奴隷として働くしかない。そんなメッセージが含まれているように感じました。
主人公のセリーは父にも夫のミスターにも力で虐げられていたせいで笑う時は口を手で隠すことが癖になっていました。
離れ離れになってしまった妹ネティからの手紙を受け取ることも出来ず、男性たちからは馬鹿にされていくのです。
この女性軽視・蔑視は今の日本でも共通することですよね。男女平等という使いやすい言葉がありますが、まだまだ一部の男性による女性軽視・蔑視の言葉や態度があると思います。
他にもLGBTや女性が自立して生きるということ、性暴力など現代にも通じる社会問題がこの物語には詰まっています。
スピルバーグ監督が映画化へ
1985年にスティーブン・スピルバーグ監督によって映画化されました。
スピルバーグ監督はこの物語を読んで、素晴らしさから作家のアリスさんに必死に売り込みをしたそうです。
当のアリスは白人ビジネスに自分の作品が使われるのを嫌い映画化を拒否し続けたそうですが、スピルバーグ監督の熱意に押され映画化に至ったといいます。
この作品はアカデミー賞の中でも作品賞を含む10部門で候補に挙がりましたが、結果無冠で終わっています。
評価は高いのに賞レースには無縁だった背景にはアカデミー賞自体が黒人が主役の映画に対して消極的だったという理由やスピルバーグ監督らしくない作品として拒否されたなどといった噂があるそうです。
映画の中ではブラックミュージックが多く使われています。
テーマとしては、人種差別や女性蔑視など少し重たい印象のあるものなので、映画自体も暗くなっているのかなと思いきや、ブラックミュージックのおかげで暗すぎず、明るいテンポに救われる時もあります。
闘い続ける女たち
この映画では闘い続ける女性たちの姿がとても印象的でした。
セリーの周りの女性たちは差別や力に屈せず、闘い続けています。
妹のネティ、ソフィア、シャグの女性たちの姿がセリーに生きる希望と愛されることの喜びを与えてくれます。
女性たちと出会ったことでセリー自身も立ち上がる勇気を持っていくのでした。
その姿が印象的だったのが終盤にある家族との食事のシーンです。
セリーのシーンで印象的だった言葉を2つ紹介させてください。
「人にやったことは必ず自分に跳ね返ってくる」
「黒く、貧しく、醜いけど...私は生きている!生きている!」
私は生きている!という言葉は最後自分に言い聞かせるかのように何回かセリーが言っています。
まとめ
この映画で描かれているテーマは過去の話ではなく現在にも通じている話であり、“アメリカという他国の話”ではなく、“日本でも同じことが言える”話だと思います。
それは直接その人に行っている言葉だけではなく、顔が見えないからこそ言えるSNSでの人権を無視したような言葉の数々があります。
SNSの場合、顔が見えないことをいいことに好き勝手なことをいう人たちがいます。しかし、そのせいで命を落とす人もいるということを忘れないでほしいと思っています。
最後、ミスターはボロボロになり、自分の行いを改めいいことをすることになります。
終始、男ってひどいという印象を持たせますが、ミスターの最後の行いで救われる男性もいるのではないかと思います。
私は思っています。
差別や偏見をする人、言う人に特別それをしなくてはいけない理由なんてないということを。
肌が黒く生まれただけ、生まれた場所がどこだったなどというのは差別や偏見をしていい理由なんて決してなりません。
もし、この映画をみて、少しでも黒人を差別するなんてひどい、ひどい扱いだ!と思ってくれたのであれば、紹介した甲斐があります。
ぜひ、一度視聴してみることをお勧めします!
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