朝ドラエールで長崎の鐘。長崎の鐘からの核兵器禁止条約

スポンサードリンク



私は昔から朝ドラが好きでよく見ています。

思い起こせば朝ドラの「ちゅらさん」からはまり、好きすぎるあまり沖縄まで旅行に行き、当時ドラマの中のキャラクター”ゴーヤーマン”を買いに行ったほど。

現在見ているのが「エール」。今日は現在放送中のこの「エール」の好きな週とそれに関連したニュースを紹介します。

Contents

朝ドラ「エール」

主人公福島県出身の天才作曲家の古山裕一。独学で作曲を学び、戦前・戦時・戦後と数多くの名曲を生み出していきます。

モデルは同じく福島出身の作曲家の古関裕而。

朝ドラというと、女性が主人公を演じることが多く女性たちが紆余曲折しながら自分の夢を叶えたり時代に翻弄されながらも社会的地位を築いたり、旦那さんを支えるしたたかな女性像というのを表現しています。

男性が朝ドラの主人公を演じるのは過去100作品を超える朝ドラの中でも3回目。

とはいえ、見ているターゲットは主婦層がほとんどなので、感情移入の面など見ていると女性が主人公になるのは必然と言えると思います。

朝ドラ「エール」あらすじ

福島県出身であり、当時由緒ある呉服店の長男として生まれた古山裕一は何をしてもパッとせず。また吃音もあったため、同級生からよくからかわれていたのでした。

ある日、弟が生まれたことにより、父親が大きな蓄音機を購入。これが裕一の運命を変えたのでした。

蓄音機から流れる西洋音楽や童謡といった音楽に夢中になる裕一。

ある日、学校の宿題で作曲をすることになりました。これが音楽の先生でありのちに恩師になる藤堂先生に絶賛され、また同級生たちの中でも裕一は一目を置かれるようになったのでした。

音楽が自分の道だと信じた裕一は音楽とともに成長し、社会人になった際、ある作曲コンクールに応募。そして見事入賞を果たしたのでした。

そのころ、文通を通して、関内音という女性と出会った裕一。のちに裕一を献身的に支える妻となる女性でした。

音のサポートもあり、レコード会社に入社。

なかなかヒット作に恵まれなかった裕一でしたが、早稲田大学の応援歌を作ったことにより、人々にエールを送る音楽を作ることに目覚めたのでした。

そして、裕一は時代の流れとともに人々にエールを送る曲を作り続けますが、それは、裕一にとって、時代に翻弄されるものになるのでした。

第18週「戦場の歌」

※ネタバレあり。

数々の歌謡曲をヒットさせ、有名作曲家の仲間入りをしていた裕一。

時代は昭和に入り、世の中は戦時色が強くなってきました。

裕一も戦時歌謡を作り続け、戦場へ向かう若者たちへエールを送り続けてきました。

戦時歌謡を作り続けることは、裕一にとって日本への応援歌であり、日本が戦争に勝つために送り続けたエールだったのです。

ある日、ビルマ(現ミャンマー)へ慰問に行けることになった裕一。

そこは、「インパール作戦」が行われる激戦地だったのです。

そこで、かつての恩師である藤堂先生が前線に赴任していると聞き危険を顧みず会いに行くことに。

兵士たちと音楽演奏会を楽しみ音楽で心を一つにした翌朝、部隊はイギリス軍の攻撃を受けてしまうのです。

裕一を守ろうとした藤堂先生は裕一を車の下に隠した矢先、撃たれてしまいます。

裕一は本当の戦場というのを知り、自分の作った音楽のせいで多くの若者たちが命を落としていることを肌で感じ知るのでした。

第19週「鐘よ響け」

※ネタバレあり。

日本に戻ってこられた裕一。終戦を迎えます。目の前で恩師を亡くしたショックと戦争の現実を目の当たりにした裕一は曲が書けなくなってしまっていたのでした。そこへ、劇作家である池田二郎と出会います。

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を作曲することになります。

再び作曲することができた裕一は今度は「長崎の鐘」という曲を作ることになります。

「長崎の鐘」の歌詞の元となった書籍の執筆者である永田武医師に会いに長崎に行くことを決意します。

長崎に原子爆弾が投下されたのちも自らも被爆しながらも医師として救護にあたっていました。

被爆の影響か、永田医師は白血病に犯されていました。

自分の曲をきっかけに死んでいった者たちへ「長崎の鐘」を作りたいと話す裕一に対して永田医師は「贖罪か、長崎の鐘をあなたのために作ってほしくない」と厳しい言葉をかけます。

裕一は長崎に滞在中に必死に永田医師の言葉の意味を考えます。

原爆投下後の長崎で人々はどん底にいた中でどのように立ち上がったのか、戦争が終わった今、自分にできることが何かを必死に考える裕一。その裕一導き出した答えは「希望」でした。

人々にエールを送る曲を作る。そして、「長崎の鐘」が誕生したのでした。

永井氏がいた如己堂。ドラマでも登場

放送の2日後、核兵器禁止条約50か国批准。

第18週、第19週のこの2週分は朝から放送するのにはとても重たい内容でした。

そして、戦時中の表現がリアルであるとSNSでも多く話題になりました。

このドラマ自体が音楽で人々を元気にしていくという元に毎回面白くカラフルな表現がとても良いのが印象的なドラマ。

しかし、この2週に関しては、そのカラフルさもなく、茶色でその時代を表現していました。

この朝ドラ「エール」はコロナウィルスの影響で撮影がストップ。

約1か月以上も放送がなかったのです。

本来の日程で放送をされていれば、この2週分は8月あたりに放送されていたもの。

8月9日の長崎の原爆投下、8月15日の終戦記念日に合わせて作られたものなのだと思います。

朝ドラは女性がメインに描かれるものなので、今までも戦争に関しての題材はありましたが、ここまでリアルな戦場と戦後を描いたことはなかったのではないだでしょうか。

”男性”が主役だったからこそ、ここまで戦争をリアルに描くことができたし、戦争に翻弄された男性たちを描くことができていたのではないかと思うのです。

ここでは書いていませんが、放送では裕一の義兄にあたる智彦の苦悩も裕一と対照のように描かれていてとても興味深く見ることができます。

智彦は職業軍人として、今まで昇格して地位を確立していくことばかりでしたが、終戦を迎え、軍人としての地位も価値もなくなってしまった自分と向き合うのです。

話は戻り、この2週分は8月に見てみたかった気もするがこの10月下旬に放送されたというのも偶然ではなく必然のようにも感じられました。

なぜかといえば、第19週の「長崎の鐘」で裕一が「長崎の鐘」を完成させラジオを通して多くの人々へエールを送った2日後、現実世界では”核兵器禁止条約”に世界50か国が批准したのです。

核兵器禁止条約って?

核兵器禁止条約について知りたい方はこちらの記事もご覧ください。

https://kasuminsan.com/?p=744

批准と署名の違い

署名:①外交会議等において条約の内容が確定したときに、全権を委任された各代表団の長(首席代表)が条約の内容を公式に確認した証拠として記名することを指す。

②通常の条約は、一定数の国家が条約に拘束されることへの同意を示すことによって効力を発生する。このような意思を表明する方法としては、批准、受諾、承認、加入などがある。このうち、批准、受諾とは、条約に署名することによって将来的に条約に拘束される意思があることを予め表明(条約の内容に対する基本的な賛意の表明)し、その後国会による承認等の所要の国内手続を行って、しかる後に条約の事務局等に批准書等を寄託することによって条約に拘束される手続のことである。署名の要・不要や、署名が可能な期間等は条約中に規定されている。

批准:国家が条約に拘束されることに同意する手続きのひとつである。通常は議会の同意を得て元首等が裁可あるいは認証、交付等を行うことにより国内において成立し、多国間条約においては国際機関等の寄託者に批准書を寄託すること等により、また、二国間条約においては締約国間で批准書を交換すること等により、確定する。

署名・批准ともに意味はWikipediaより引用

私なりの簡単な解釈としては、署名は国として、この条約に賛同しますよというもの、批准は国として国の条約として取り組んでいきますよというものだと思います。

2017年7月7日に核兵器禁止条約が制定されました。

世界の人々、そして、戦争時唯一の被爆国である日本の被爆者の方々の想いが条約という形になった瞬間でした。

核兵器禁止条約が条約としての効力を持たせるためには50か国の国が批准をしたのちに90日後条約として発効されるのです。

それが10月23日、ついに世界50か国が批准をしたのでした。

2021年1月には条約が発効されます。

長崎の鐘からのエールで核兵器禁止条約が批准されたこれは、単なる偶然とは思えないのです。

一方、ここまで話しましたが、日本はこの核兵器禁止条約には署名も批准もしていません。

戦争時唯一原爆投下された国にも関わらず、署名も批准もできない、なんとも不思議な国なのです。

長崎の鐘

エールの永田武医師は、「長崎の鐘」の作者である永井隆医師がモデルです。

原爆当時頭をケガしながらも被爆した人々の治療にあたりました。

実際に永井隆医師を知らないのと、知っている人ももうほとんどいないのでは?と思う中で、俳優の吉岡秀隆さんが見事演じていました。

実際の永井医師はこんな人なのかなと想像力を掻き立てられるように演じていました。

長崎の鐘の著者 永井隆医師。

この長崎の鐘と、朝ドラ「エール」での人々への応援歌が被爆者や核なき世界を目指す人々へのエールにもなったのではないでしょうか?

少なくとも私は、長崎の鐘が今後の活動のエールになりました。

スポンサードリンク

スポンサードリンク



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

埼玉県で生まれ育つ。 現NGO職員。世界4周経験。その中で、広島・長崎の被爆者の方とふれあいを通して戦争を知らない世代こそ継承していくことの必要性を強く感じる。戦争を知らない世代の子どもたちに伝えていく活動をしている。 趣味:読書・映画鑑賞・旅行 好きなもの:ディズニー・アメフト・関ジャニ∞