あの3月11日から10年。#1人の100歩より100人の1歩

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2021年3月11日で東日本大震災から10年の月日を迎える。

私は人には絶対に忘れてはいけない日というのがあると思っている。

私は6月23日・8月6日・9日・15日・1月17日そして3月11日。

他にも忘れてはいけない大事な日というのがあるが、私にとってこの日は忘れずに大切に過ごしたい日である。

3月11日で2011年に起きた東日本大震災から10年を迎える。

10年目だからこそというわけではないが、今年はコロナ禍でなかなか外に出にくくなっている分、3.11というこの日に思いを馳せる時間が欲しいなと思う。

以前、私は当時2011年3月11日のことをブログに書いた。

今日はその年の夏に起きた出来事を話したいと思う。

これで放射能を防げるの?

2011年は私が大学3年生のとき。心理学を勉強していた。

ゼミは福祉心理学というもので、引きこもりをしている人やうつなどで苦しんでいる人にどのような心のケアをしていくのかといったものをテーマとしていた。

担当教授も震災で心にPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱え苦しむ方への心のケアに出向いたりしていた。

夏、教授提案で福島の子どもたちを外で思いっきり遊ばせるために長野の別荘に招待しようということになった。

当時、東北の子どもたちは福島原発の影響で放射能の恐怖にさらされていた。

なので、外で思いっきり遊べずなおかつ仮設住宅や体育館という限られた室内で遊ぶことを強いられていた。

それによって、子どもたちの心のストレスを解消するために放射能の影響が少ないであろう、担当教授の別荘しかも長野という自然豊かな場所でストレスを軽減させるために企画されたのだ。

東北などから約15名前後の子どもたちをバスで迎えに行き長野へ連れてきた。

福島県の郡山駅に自力で集合できる子たちを対象としていたので、福島近辺の子たちが多かったと記憶している。

子供たちは小学1年生~中学1,2年生ぐらいまで幅広い。

少しの間親元から離れることにはなるが、親としては狭いところでのびのび遊ばせてあげられない親のストレスもありたくさんの子どもたちが参加した。

受け入れるこちらもゼミ生や卒業生などが集まり行く場所・担当・レクレーションなどを会議していた。

子どもたちの人数も多いので、何人かのグループに分けられて移動や遊びなど終日一緒に過ごすことになった。

いざ、当日。バスに乗って引率のゼミ生たちとともに子どもたちがやってきた。

親元から離れる不安とでもようやく外で思いっきり遊べる楽しみとでわくわく・ドキドキしている様子の表情だった。

私も同じゼミ生と数名の子どもたちの担当になりお兄さん・お姉さんとして過ごした。

私は小学校3年生ぐらいの女の子になぜか好かれ終始一緒に行動をともにした。

荷物を置き、一通りのことをしたのちにいざ外へ。

その女の子にお母さんから託された蛍光色の虫よけバンドを腕につけるように促した。すると女の子に言われた一言が私に衝撃を与えた。

「これなーに?これで放射能にならなくて済むの?」

小学校3年生の女の子の口から”放射能”という言葉を聞くことも驚き、この子たちは、日々放射能の恐怖と戦っているんだ、そしてお母さんがきっとそう言っているんだなとなんだかこの東日本大震災がただの地震や津波の災害だけではないという現実を突きつけられた気がした。

東日本大震災の3月11日は大変だった。けど、東北から離れた場所に住んでいて、東北と特に関係性のない私にとって、いかに他人事であったかが、その子の何気ない質問に正直驚いてしまったのだ。

私はなんて答えたのかあまり覚えていない。はっきりとそうだよとも違うよとも答えられなかったと記憶している。

あの時、この目の前の女の子にかけてあげるベストの回答は何だったんだろうか。

「そうだよ、放射能防げるからこのバンドつけようね」だったのか「違うよ。これはただの虫よけのバンド。放射能の防げないよ。」だったのか。

でも少なくともニュースで見ているだけだった被災地のじぇん上を目の前の女の子から突きつけられてしまった。

私のあいまいな返事を聞かぬまま、女の子は遊びに行ってしまい、そのあとも私も子どもたちを遊ばせることに集中していた。

外で思いっきり遊んでいる中でどんどんと女の子もバンドのことを気にしなくなった。

本来は虫よけの役割があるバンドなので、常に肌身離さず持っていた方が下手に何かにさされなくて済むのだが、放射能をはじくバンドと思っている女の子がのびのびと長野の自然を楽しんでいる姿を見るとなんだか「バンドつけよう」という気になれなかった。

あっという間の時間。女の子たちはじめ小学生たちは元気にまた福島の自分たちのいる場所へと帰っていった。

帰りお母さんたちが迎えに来た時に安心した顔が今でも思い出される。

子どもたちとの交流はこれまでになってしまっているので、今、あの女の子がどう元気に過ごしているのか知ることはできないのだが、元気に過ごしていることを願いたい。

10年前なので、今は19、20歳になっていると思う。

10年目の支援のかたち。

一般社団法人ピースボート災害支援センター(PBV)では今クラウドファンディングに挑戦している。

https://readyfor.jp/projects/pbv10thmemorial

コロナ禍・災害と私たちにはたくさんの困難があるが、1人の100歩より100人の1歩 という合言葉を胸に前を向いていく必要があると思う。

10年目に改めて今、自分にできることを考えたい人はぜひPBVのページをのぞいてみてほしい。

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ABOUTこの記事をかいた人

埼玉県で生まれ育つ。 現NGO職員。世界4周経験。その中で、広島・長崎の被爆者の方とふれあいを通して戦争を知らない世代こそ継承していくことの必要性を強く感じる。戦争を知らない世代の子どもたちに伝えていく活動をしている。 趣味:読書・映画鑑賞・旅行 好きなもの:ディズニー・アメフト・関ジャニ∞