バトンを受け継ぐ③~三瀬清一朗さんのお話~

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あなたには10歳の時の記憶はありますか?

証言を始める時、聞いている人たちに話しかける。

10歳の時の記憶。私は覚えていない。


三瀬清一朗さんのお話


三瀬さんとの一番最初の出会いは4年前のピースボート第83回クルーズ、私が一般の参加者として参加したクルーズである。

私はそれまで広島での被爆体験の話は聞いたことがあったが、長崎での被爆体験というのは聞いたことが無かった。

月日は流れ、第10回おりづるプロジェクトで共に世界に向けて核廃絶への想いを伝えるクルーズに出られるとは思っても居なかった。

72年前の原爆投下は広島と長崎と2回された。

広島の方が初めての投下であり、被害者の多いということで何かと広島の方がフューチャーされがちである。

しかし、長崎で落とされたプルトニウム爆弾の方が広島のウラン型より威力が大きく、長崎に落とされた場所は立地的に山々に囲まれていたということで別の意味で奇跡的に被害が少なくて済んだと言えると思う。

だが、落とされたことと、人が傷ついたという事実は広島も長崎も何も変わらない。

三瀬さんは周りから”せいちゃん”と愛称で呼ばれることが多かった。

私も敬意を込めてせいちゃんと呼んでいるし、ココでも”せいちゃん”と表現したい。

せいちゃんは10歳の時に爆心地から3.3kmのところで被爆した。

今、活動している被爆者の多くがせいちゃんのような小学生ぐらいで被爆した方々だろう。

そして、記憶のある被爆体験が聞けるのは恐らく、せいちゃんの世代が最後だと思う。

1941年のこと、せいちゃんが国民学校1年生の時に太平洋戦争が勃発した。

1944年頃からB29の本土空襲が激しく行われた。

当時せいちゃんは学校で爆弾が落とされた時の対処の方法を教わっていた。

もし、爆弾が落とされたら、「両の親指で耳を押さえ、人差し指と中指で目を押さえて地面にふせなさい」と先生から教わっていたという。

8月9日である。午前10時頃、警戒警報が解除になり人々は普段の生活に戻ろうとしていた。

せいちゃんは家にあったオルガンをおもしろ半分でB29の音を真似て弾いているとおばあちゃんに「敵機がくるから止めなさい」と叱られ、オルガンを閉めると同時にいきなり目の前が真っ白になったといっていた。

あたかも太陽が家の前に落ちたと思われるぐらいの衝撃だったと。

せいちゃんは咄嗟に学校で教わったように、耳と目を押さえ、畳に伏せたそう。

数秒間、爆風が悪魔のうねり声のような音で家の中を吹き抜けていき、せいちゃんは「僕は死ぬのかな」と恐怖の中、爆風が収まるのをじっと耐えたと言っていた。

たった10歳の少年が死ぬ覚悟をする。その記憶が72年経った今でも思い出せる。

そう考えるとどのくらいの衝撃だったのか想像出来るだろう。

数秒後、恐る恐る頭を上げ、辺りを見回すと、家の中は窓ガラスが割れ飛び散り、畳は吹き上げられ、棚の上の置物は吹き飛ばされ、跡形もない、足の踏み場もなく手の付けられないような有様だった。

家の中がこの数秒間で一変した。

せいちゃんが呆然としていると家のどこからかせいちゃんのお母さんが狂ったような大きな声で子どもたちの名前を呼んでいた。せいちゃんは6人兄弟。恐さに泣きながらお母さんの声の元に駆け寄った。せいちゃんのお母さんは子どもたち1人1人怪我をしていないか確認した。

幸いにも全員は怪我1つなく助かった喜びでみんなで泣いた覚えがあるとせいちゃんは言っていた。

落ち着いた時にせいちゃんは足の踏み場もない家の中を用心しながら外へ出てみると、満帆であった防火用水の水槽が横倒しになっており、爆風のすさまじさを改めて知ったという。

午後から黒い雨が降り始めた。べとついた雨粒が身体に付着し手で振り払った記憶があるという。後になって放射能を含んだ雨だったということを知らされたと言っていた。

数日後、広島に落とされた新型爆弾と同じようなものが落とされたということが分かった。

家の片付けも終わり、近所の友達と約600m離れた学校のことが気になり、行ってみたそうだ。そこには想像を絶する光景が目の前にあったという。

たくさんの負傷者や火傷を追った人、男女の区別が付かないほどの負傷者が次々と運ばれてきた。口々に「水をください。水を飲ませてください」と弱々しい声で水を求めても、誰一人として飲ませようとせず体育館の奥の方から寝かされていた。

当時、いきなり落ちてきた大きな爆弾。水を飲ませると死んでしまうという噂によって、火傷で苦しんでいる人がいても水は与えられなかった。

体育館の中の負傷者が静かになったと思ったら息絶えているらしく、大人が校庭に運び出し、遺体を焼き始めていた。

どこの誰か名前も分からない人が知らない人たちに焼かれている。

その焼ける臭いは今でも忘れることが出来ないとせいちゃんはいう。

この状態が8月いっぱいまで続いた。

2学期になり授業を始めるために校庭に集められた。最初の作業としてグラウンドの整備から始めた。

凸凹になった場所を平らにするため掘り起こしたりすると、人骨らしきものがたくさんでてきたという。

先生に「これはなにね?」と聞くと「黙って箱に入れなさい」と言われながら黙々と作業をしたとせいちゃんは言っていた。

8月15日

玉音放送をせいちゃんのおばあちゃんが聞いてきた。

「日本は戦争に負けた」とぽつりと言っていた。せいちゃんは戦争が終わったことで大変嬉しかったと話していた。

小学校1年生(当時は国民学校)で太平洋戦争が始まり、5年生で原爆が落とされる。5年間は戦争と空襲に明け暮れ、いつ敵機が飛んでくるかイヤというほど恐い思いをさせられた。

明日から空襲のない青空の下思い切り遊ぶことが出来る。

これが平和への第一歩であるとせいちゃんは言っていた。


あとがき


当時小学生ぐらいの子どもたちにとっては生活が戦争の一部であった。

いつどのように始まり、どうやって戦争色に進んでいったのかは知らなかっただろう。

だがどこかのタイミングでこれはなんか違う。何かが変だと思ったはず。

しかし思っても大人は子どもの言うことを聞いてくれないから伝わらない。

大人は事実も感情も全て隠そうとする人が多い。

誰かが言っていた。今生きている被爆者の方は被害を受けたのが、幼少期。だからこそ被害の苦しみも大人より多少は少ないから被爆証言が出来るのだと。

それを現実的な生の証言ではないと問題視する人もいるだろう。

しかし、私はせいちゃんのような年代の子どもたちが体験した出来事だからこそ、ありのままを伝えられるのだと思う。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

埼玉県で生まれ育つ。 現NGO職員。世界4周経験。その中で、広島・長崎の被爆者の方とふれあいを通して戦争を知らない世代こそ継承していくことの必要性を強く感じる。戦争を知らない世代の子どもたちに伝えていく活動をしている。 趣味:読書・映画鑑賞・旅行 好きなもの:ディズニー・アメフト・関ジャニ∞