被爆者の方々の職業は”語り部さん”ではない。
被爆者とはいえ、被爆証言を必ずしなくてはいけない訳ではない。
だって、辛い体験だから・・・話をするということは当時を思い出すこと。
当時を忘れようと、日々の生活に夢中になり少しでも日々の生活に慣れようとしている。
月日が経ち誰かの何気ない一言から、何気ない体験からきっと思うのだと思う。
「私が体験したことを伝えないといけないのではないか・・・」
”死ぬ”という体験をし、生きるか・死ぬかその2択を迫られて、奇跡的に生きるという選択肢を与えられたのだと思う。
この方が生きているのは、生きて話が聞けるのは”奇跡”だと私は思う。
田中稔子さんのお話
稔子さんとの出会いはピースボート第94回クルーズ。第10回おりづるプロジェクトである。
出会った時稔子さんはこういった。
「自分の体験をずっと隠していたの」と。
これがどんな意味か想像つくだろうか。稔子さんの話を聞いて想像してほしい。
稔子さんは壁面七宝アートという作品を作っているアーティストである。
自分の体験を言葉で伝えるのをしない代わりに自分作品に被爆や平和への想いを込めている。



稔子さんは6歳10か月の時に被爆した。
小学校1年生の時だった。

その日、広島の”きのこ雲”の下におり、火傷と放射能を受けた。
稔子さんは1週間前まで広島の爆心地から僅か500数メートルの場所に住んでいた。
原爆の落ちる1週間前に2.3km離れた牛田町へ引っ越したため、命だけは助かった。
朝の8時15分。
小学校に行く途中だった。
どこからともなく聞こえてきた声、「敵機だ!B29だ!」
その声に空を見上げると、2機の飛行機が見えた。とたんに写真のストロボを何千も一度に束ねたような猛烈な光におそわれ、辺りは真っ白になり、目がくらみ、何も見えなくなった。
とっさに右腕で顔を覆ったので、頭と右腕、左後ろ首に火傷をした。そして辺りは暗闇のように真っ暗になった。熱い砂埃が舞い上がり、太陽を覆った。
その下に居た稔子さんは口の中に砂埃がいっぱい入り、じゃりじゃりとした不気味な感覚を今も覚えているという。稔子さんは何が起きたのか分からず、呆然としていた。
そのうち右腕の火傷は大きな水ぶくれとなり、猛烈な痛みが襲ってきた。恐ろしく逃げまどいながややっとの思いで家に帰り着くと、家はめちゃめちゃに壊れていた。
稔子さんは言う「破れた屋根から青空が見えました。火傷をして泣きながらも、子ども心にその青空の美しさが印象に残り、今もそれが私を元気づけてくれるのです。天が励ましてくれたように思えます。今まで前向きに生きてこられたのは、そのおかげかもしれません。」
現代社会の教科書にはこう書かれている。
「1945年8月6日広島に原子爆弾が投下され、約14万人もの人々が被害に遭った。」
この一文にどのくらいの人々の人生があったのだろうかと思う。
長崎も同様である。
何が言いたいか、稔子さんの話を続ける。
稔子さんが当時原爆が落ちる1週間前に爆心地から2.3km離れたところで被爆した。
逆で考えてみると、たった1週間の差で生死が分かれた訳である。
というと爆心地にいた小学校のクラスメートは全滅したという訳だ。
この同級生が全滅した話も稔子さんは戦後に聞かされた。

※稔子さんのクラスメートの写真。
4歳の稔子さんの妹も飛んできたガラスで額に深い傷を負っていた。
お父さんは戦争に取られており、その時留守であった。
お母さんは幸い無事であったという。しかし、帰ってきた稔子さんを見てもとっさには自分の子どもだとは気づかなかったという。
髪の毛は焼けこげ縮れ、服は破れ顔や手足は真っ黒。というあまりにも姿形が変わっていたからである。
稔子さんその夜から高熱が出て、意識不明の重体になった。医者も原爆でやられ、病院も破壊された状態で治療は出来ない。生死は個々の体力と運のみが決めていった。稔子さんのお母さんは死を覚悟したそうだ。
その日の夜までの恐ろしい出来事は今でもハッキリと覚えているという。
その日大勢の瀕死の人々が、家の前にぞろぞろと列をなして逃げてきた。
親とはぐれ、生き残った幼い子どもも見知らぬ大人の後を着いて来た。
ほとんどの人の衣服はやけ、若い女性も裸同然だった。彼らは両手を前に伸ばして、肩から剥け落ちた自身の腕の皮膚を、爪先にぶら下げていた。幽霊の行列のようだったという。
不思議な出来事が起きたという。
怪我も火傷も見当たらない大人や子どもがバタバタと家の前で力尽きて死んでゆく。
大量の放射線を浴びていたからという。しかし、当時は誰も放射能のことを知らない。稔子さん自身も一体どれくらいの放射線を浴びたのか、はかることもなく、また未だもって分からないという。
お母さんは大変困難な時にもかかわらず、逃げてきた人たちを何人も壊れた家に泊めた。
その夜、大やけどをした2歳の妹を背負って、15歳のお姉さんも来て泊まっていった。
しかし無傷に見えたお姉さんがすぐ死に、火傷の妹さんも助かったそうだ。お姉さんは致死量の放射線を浴びていた。
稔子さんの火傷の跡は何年もかかりやっと薄くなっていった。しかし、心の傷と放射線被爆の影響は残っている。
稔子さんは10代前半で症状が出た。白血球の数値異常と診断された。
微熱と耐え難い疲労感があり、よく気分が悪くなり倒れたそう。
口内炎や唇周りの吹き出物は年中絶えず、ご飯を飲み込むのも一苦労だったという。
今でも疲れると帯状疱疹が出て痛くて夜も眠れないことがあるという。
大腸から原因不明の大量の出血もあったり若い時から何度も骨折や膝の手術、白内障の手術もしたという。
しかし、このような症状と原爆との因果関係は現在の法律で判断するのは難しいという。
あとがき
もし世界で自分だけが生き残ったらどうする?なんて、SF映画を見た時に友人たちとたわいのない会話で出てくる。
自分だけが生き残るなんて想像が付かない。
稔子さんは今までずっと作品に平和や原爆の悲しみを込めてきた。
ある時、証言を始める。
そのきっかけはピースボート。
世界を回っていく中で世界にはまだまだ原爆の話を聞いたことのない人たちがたくさんいる。
世界を回ってる時に言われた一言があるという。
「あなたが伝えなくて誰が伝えるの?」
被爆者は語り部さんではない。辛い話をざわざわ掘り出して話をしなくてもいい。
しかし、伝えなくてはいけない。そういう使命を得て、今日も話をしてくれる。
私は、そんな稔子さんを尊敬している。


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