被爆証言を話すということは自分のプライバシーをさらすこと。
”被爆者”と一言でくくらないでほしい。被爆者と言ってもたくさんの体験がある。
そう言われて思わず背筋が伸びる。
被爆体験=プライバシーをさらすこと。
この個人情報にうるさく神経質な時代にわざわざ自分の過去を話す。
改めて思う、好きで被爆証言をしている被爆者の方なんて1人も居ない。
Contents
木村徳子さんのお話
木村さんとは一緒に船に乗っていた訳ではない。
木村さんが乗船した95回クルーズのおりづるプロジェクトの時に私は陸で動向を見守っていた。
今年に入り、様々なイベントでお会いすることになり、今回、証言を聞くことになった。
ここでは敬意を込めて、徳子さんと呼ばせていただく。

徳子さんは話をする前に長崎に原爆が落とされる経緯を教えてくれた。
1945年8月9日長崎に原爆が投下される3日前に広島に原爆が投下された。
当時は何が起きたのか分からず、噂で”超新型爆弾が投下されたらしい”という情報しか来ていなかったという。
長崎の爆心地は爆心地としてあった訳ではない。
結果として爆心地になったという表現があっていると思う。
しかも元々長崎に落とされる予定は無かった。
原爆投下の候補地は様々な場所があった。今回、その話をすると長くなるので割愛させていただくが、最終的な候補地としては、広島・長崎・小倉・新潟というのがあった。
投下させるための条件としては、目視が出来るくらいの天候の良さ=晴天
広島の場合は8月の晴天。雲1つない青空であった。
2つ目の目標として小倉があった。
しかし、当時小倉は曇天。目視が条件なため断念し、次に目標としていた長崎に変更。
長崎も曇天ではあったが、雲の切れ目から下界の街並みが見えた。
操縦士はそこを逃さず、雲の切れ目へと原爆を長崎の地へと投下させていったのであった。
原爆投下から約40秒。地上から530mの高さでシャワーのように爆発した。
徳子さんはその高さをスカイツリーで表現してくれた。
スカイツリーの高さが634m。

スカイツリーの高さをより知る事になるが、しかし、そのくらい高い位置から落とされたという事になる。
徳子さんは当時、爆心地から3.6kmの繁華街が多いところに住んでいたという。
国民学校4年生で10歳。繁華街に住んでいたという。
ちなみに、被爆者の方とお話をする時に爆心地から何キロ地点で被爆したのかというのをよく聞く。
地図を用いて説明する人もいるが個人的に今までピンと来ていなかった。
そこで文明の利器、グーグルマップで表現してみた。

爆心地~長崎中華街のところまで記してみた。距離としては4kmくらい。
徳子さんが被爆した3.6kmはもう少し爆心地に近いといってもたったこのくらいしか離れていないことになる。これを「こんなに近いのか~!」と思うか「なんだ、そんだけ離れていたのか!」と思うかは人それぞれとして、私個人の意見としては「こんだけしか離れていなかったのか!(爆心地から近いじゃん!)」という驚きがあった。
長崎には何回か行っている。上記の地図ほどの距離であれば頑張れば歩いて移動出来る。
それだけの距離の起きた出来事。それは一体どんだけの体験だったのかと思うと心が痛む。
話を戻す。
当時、徳子さんの家族はお母さん、弟・妹、15歳になるおばさんの5人家族であった。
お父さんは2年前に召集令状が来て、兵隊に取られてしまっていた。
徳子さんはいう、「世間一般的に赤紙(召集令状)が届くとお国のために働くということでおめでとうと言われていた。私の父は明日からいなくなると考えたらなにも嬉しい事なんてない」
その感情は素直な感情であり、当時どのくらいの人々がその感情を押し殺して嬉しくもない「おめでとう」と言っていたことだろうか。
徳子さんの家はお父さんがいないことで女・子どもしかいなくなってしまう。
それを案じてお父さんは疎開を提案していた。
城山町へ引っ越しをし、2学期からは城山国民学校に通う予定であった。
城山国民学校・・・・爆心地より一番近い学校であった。そのため、原爆による被害(人も建物も)損傷が高い学校である。
当時夏休み。男手が居ない家だったので引っ越すために何度も家と引っ越し先を行き来していたという。
時に路面電車・時にリヤカーを使って。
8月9日。
その日も引っ越しをする予定だったという。朝、空襲警報が鳴り、防空壕へ避難していた。
空襲警報が解除となり家に戻っていた。
引っ越しをするには時間が遅くなっていたため、その日は家で過ごしていたという。
もし、空襲警報が鳴らなかったら、もし、引っ越しをするために城山町へ向かっていたら、もしも・・・
当時の出来事に”もし”はない。しかし、もし徳子さんが朝から引っ越しのために城山町へ向かっていったら、死体も出てこない状態で死んでいたと思う。
家の2階で過ごしていた時にグーンと微かに爆音が聞こえたという。
何かと思い窓を見上げた途端ピカっとオレンジ色の周りが白い炎の用に光った火の玉を見たという。
当時は隣の家に爆弾が落とされたと思ったらしい。
2階から階段を駆け下り、床下にある地下の防空壕に飛び込んだ。
真っ暗な中、遠くで地鳴りのような音と地震のような揺れを感じながら壕内は静まり返っていた。
外に出ると昼間なのに街は夕方のように薄暗くなっていたという。
午後になりムっとする暑さの中、防空壕の北の方から灰色の塊が近づいてくるのが見えた。
それは逃げてきた人たちだった。顔は真っ赤に腫れ上がり、髪の毛は灰色にぼうぼうと立ち上がり、火傷のため服の布と腕の皮膚がドロドロと溶け合って手を前に差しのばしながら防空壕に倒れ込んできた。
「水を・・・ください・・・」
そういう人たちに、徳子さんは持っていた水筒の水を渡してあげたそう。
家は瓦・壁・ガラスが床に散らばり、今にも壊れそうだったという。
夜になると爆心地の浦上方面の空は真っ赤に輝いて燃えていたという。
原爆は一瞬の出来ごとだった。しかしそのとき被爆した人は、その人が亡くなるまで一生、原爆から離れられない。原爆はその後の生活にも闇を落とした。
差別である。
被爆したということは多くの人々の生活に影響した。
就職・結婚・出産・・・・
徳子さんの場合は、結婚するのに、相手の家族に被爆したことを黙っていたという。
結婚の際に被爆したということがネックになり結婚出来ないで居る人もいる。
徳子さんは旦那さんしか被爆の話をしなかった。
結婚し、お子さんができた時、生まれてくる子どもにはどんな影響があるのか、産むか産まないかとても悩んだと言っていた。
ある日、お子さんが小学校で原爆ののことを学んだのか、「ママ、もしかして私、被爆2世?」と質問してきたそう。
当然のことなのに、全身に冷や水を浴びせられたような衝撃が走ったと言っていた。
徳子さんは「そうよ。」とだけ答えた。
徳子さんは被爆の話をするということは子どものプライバシーも暴露することだと言っていた。
確かにそうだ。
被爆2世であるがために、差別や偏見を受ける可能性だってある。
徳子さんは最後にこういっていた。
「核兵器に関して様々な意見があるかもしれない。しかし、核兵器は落とされた側が被害にあうだけではなく落とした側もお互いに大きな被害にあう。それは忘れてはいけない。」と。

あとがき
被爆者の平均年齢は82歳。徳子さんと同じ年齢である。
あと、数年もしたら実際に体験した人の話は聞けなくなる。
核兵器禁止条約や北朝鮮の核ミサイルのニュースなど昨今私たちの生活に不安を及ぼしている。そこで必ず出るのが、核兵器は必要か否か論争が巻き起こる。
私たちが見たり聞いたりしているのはニュースから得られる情報、教科書などで出てくる数(何万人亡くなったとか何発あるとか、何カ国がどうしたとか・・・・)、国の利益はどうなのか。
しかし、考えてほしい。人を傷つける兵器はそもそも必要か?
徳子さんを始め、今でも多くの方が話したくもない話をしている。伝えようとしてくれている。
ある人が徳子さんの話を聞いて言った。「話はすごく感銘を受けました。これからも頑張ってください。」
言った本人は何気なく悪気もなく、純粋な気持ちで言ったのであろう。
だが私には違和感しかなかった。これ以上被爆者が何を頑張るのか?
次はバトンを受け取った私たちの番だと思う。
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